思ヒ出日記95’~01’

せっかく日記をヤプログ一本化に戻したので、むか~し書いてた思ヒ出日記の続きを書きます(昔のはコチラコチラ

父親が脳溢血で倒れたことに後ろ髪を引かれながらも、父親の「行ってこい!」という強い言葉を胸に、「アメリカでバリバリ勉強して一流のミュージシャンになってやる!!」と希望に胸が溢れたまま、アメリカに旅立ちました。

しかしそこで待っていたのはアメリカの現実・人種差別。黒人に対する差別も根強く残るテネシーで東洋人なんて全く相手にされませんでした。現地の友達に声をかけても無視。便所の落書きには「JAP」「国へ帰れ」の落書き。
陸の孤島のような場所で、私達日本人(東洋人)は孤立し、アメリカのど真ん中で肩を寄せあって暮らすしかなかったようです。でも、限られた人数で固まって暮らせば日本人同士でも心はすさんで、人間関係はドロドロになっていきました。日本人同士の派閥争い、いじめ、果ては強姦事件、いじめによる自殺。

私は集団で固まるのを嫌って、出来るだけ地元の白人・黒人達と友達になろうと声をかけました。おかげで、2人ぐらいの仲のいいアメリカ人の友達も出来ました。
地元の差別を繰り返す人々に負けまいと、必死で授業について行きました。そしてなによりも必死で音楽を吸収、勉強してやろうと言う意欲でいっぱいでした。そのおかげでテネシー大学での1年間の成績は、「オールA」でした。これで私を馬鹿にしてるアメリカ人達を見返してやれた、と思いました。

そして2年目に入ると私は「こんな田舎町だから保守的で差別がひどいんだ」と思い。テネシー州の更に東にあるサウスカロライナ州の州都であるコロンビアのサウスカロライナ大学に転校しました。

しかし、テネシーでの人種差別と日本人どうしのドロドロな人間関係のせいで、私の心はすっかりすさんで、強い人間不信を抱いていました。まったくの新天地で全く友達を作ろうとしなかったのです。
一日中、無言のまま楽器のレッスンを受け、授業を受け、食事も独り、あとは家に帰ってもくもくとギターの練習をしていました。
ここで一つ私は失敗をしました。普通留学生が授業を選択する時には、留学生アドヴァイザーがきます。そして留学生が週に5個以上とろうとするとアドヴァイザーは「5個以上の授業をとった留学生は勉強がハード過ぎて、挫折して国に帰ってしまう。もしくはストレスでうつ病みたいになってどのみち帰国してしまう」といって週に4個ぐらいの授業しかとらせませんでした。
ところが、私はテネシーからの編入生だったので、このアドヴァイザーという人はいませんでした。何も知らず、人間不信で友達も作らず、勉強の意欲だけがあった私は7個の授業をとってしまいました。
結論から言うと、授業の単位は全部取れました。
睡眠時間は2時間、食事は毎回教科書を片手に持って食べ、それ以外は、授業、レポート、テスト、ギターの練習4時間、ピアノは3時間。週末は友達もいないので、ずっと10時間以上ギターを弾いていました。

そして、もうすでにうつ病パニック障害が始まっていました。下痢、頭痛、めまい、何もしてないのに涙が出る。そんな症状に毎日悩まされ、最後は幻覚と幻聴に悩まされました。

私は、地元の精神科でカウンセリングを受けることにしました。しかしカウンセラーの結論は「日本に帰って適切な治療を受けた方がいい」とのことでした。

その宣告を受けた時にも、私には次の新天地への希望の切符を持っていました。ボストンにある「バークリー音楽院」の入学許可証でした。私が少年の頃憧れたスティーブヴァイの母校、世界中のトッププレーヤが集う場所。私はトッププレーヤーたちと集い、話し、共にプレーできると思うと興奮冷めやらぬ状態でした。

そしてカウンセラーに言われた通り、日本に治療のため一時帰国。日本の病院で精神科医に言われたことは。
「もうアメリカには行かない方がいい」「行けば更に悪化します」
でした。
数ヶ月悩んだ末、バークリー音楽院に「入学辞退」の手紙を送りました。



そんなことをしてる間にも、私のうつ病パニック発作はどんどんひどくなりました。
バイトも外出も出来ず部屋にこもるようになり、食事もとらない風呂も入れない。部屋で布団にくるまって「暑い」と思ってもエアコンのスイッチを押す気力もない。毎晩のように部屋の電気を消して号泣しては両親を困らせてました。

アメリカに夢を追いに行って、必死で努力して食らいついて行った結果が、夢が崩れたばかりでなく、普通に日常生活を送ることも出来なくなってしまった、、、。
失意と絶望感のどん底でした。

「自殺」という言葉が何度も頭をよぎり、泣きながらナイフで自分の手首を斬りつける日々が続きました、、、。





ってな事があったのがもう10年以上前の事。続きは気が向いたらまた書くでせう。