思ヒ出日記(再開)

かつて「思ヒ出日記」なるタイトルで自分の回顧録でも書こうと思ってたんだけど、うまく過去の記憶が整理できなくて挫折してました、、。

最近になって、マイミクのほそぴーさんが回顧録を書いていて「ああ、こうやって書けばいいのか~」とひらめきました。

要は過去の記憶を思いつくままにダラダラ書いていきます。
過去の記憶をダラダラ書くだけなので、なんのオチもありませぬ、あしからず。
ついでにいうと病気になる直前のことなので、暗い話しか出てきません、あしからず。



で、1995年のことです。
私はギターを担いだまんまアメリカ南部のとある田舎町に着きました。
な~んにもないとこでした。
記憶に残ってるのは、とある日本人女性が自殺したという話。私がその町に着いたのが初夏だったと思いますが、その自殺があったのは、その数ヶ月前の話。

ま~、私はギターを弾くためにその町にいったので、ギターのコトにしか興味がありませんでしたが、、。

結局1年間は私はその町にいましたが、結論から言うと「一人や二人、自殺者が出てもおかしくないような社会」がそこにあったかもしれません。

私の他にも多くの外国人がその町にはいましたが、、。
う~ん私の覚えてるだけで、、。
ノイローゼで帰国したのが2名、いじめや対立は当たり前、婦女暴行未遂が一件、婦女暴行未遂事件が一件、それに端を発した裁判沙汰、、。

おっと、これは町全体で怒ったことではなく、町の中の「私の知人間の中だけ」で起こったことです。
もっと町全体の私が知らない所で起きている事件を入れたら、もっといろんなことが起きていたのでしょう。
たった1年の間に、、、。

あ、最初に書いた自殺の事件の話ですが、、、。その町に住んで数ヶ月後、ある日、隣町のライブハウスに行った時、一人の日本人女性に会いました。その人はその時その場にいて、全てのことを知ってました。
結論から言うと、集団で、その自殺した日本人女性を継続的にいじめていた、ということでした。






その町の大学は日本から多くの留学生を受け入れてました。受け入れ先の大学内の国際交流部はそれなりに国際交流に向けて頑張っていたと思います。
しかし、その町全体としては、南部という人種差別の強い土地柄、現地の住人は外国人を受け入れようとはしませんでした。

せっかく日本からやってきたのに現地の人達に受け入れてもらえない、大量の日本人が取り残されました。
その日本人達はどうすればいいのか。とにかく日本人だけでやってくしかありません。もともと集団で動くのが大好きな日本人。陸の孤島のような場所で、一つに固まっていた大量の日本人達が、やがて幾つかのグループに分かれ、やがてお互いのグループ同士でいがみ合うようになっていきました。そうやって生まれたいじめや対立なのでした。


私の日本人の友人は、その町に1年間いたことの感想レポートに
「この町は異常だ」
と書いて、日本に帰ってしまいました。
私は同じレポートで
「この町の態勢が変わらない限り、また自殺者が出る」
と書いて、その町を出ました。








ちょっと話が変わりますが、、
グループに分かれた基準で、「日本のどこから来たのか?」ってのがあったようです。特に関西から来た人達はかなり大きな集団を作って、町の中でも一カ所に固まって暮らしていたようです。「関西グループ」とか呼ばれていたかな。その中では、ものすごく先輩後輩の上下関係がしっかりしていて、それらをまとめるリーダーのような人もいたようです。


で、私はというと、、基本的にグループで動く、というのが嫌いでした。
それは今でも変わらないようです。一人で、マイペースに暮らしたいので、外国人がまとまって暮らしていた大学寮も出て、一人でアパート暮らしをしてました。っていうか、私の最大の関心事はやっぱりギターだったので、学校のギターレッスンに着いていくのが精一杯だったので、グループだの対立だの言ってるヒマは無かったように思います。ひたすら一人でアパートの部屋でギターを弾いてた気がします。
それでも、昼ご飯食べるときは、とある日本人と、その人の対立するグループへの悪口を聞きながら食べ、その日の晩ご飯はその相対するグループの人と、その人の愚痴を聞きながら食べ、、。夜中に泣きながらかかってくる日本人の友達の電話の話し相手になったり。
やがて私は一人でご飯を食べるようになったのでした。





あと、とりあえず現地のアメリカ人の友達が欲しくて、とりあえず同じギター科の友達に話しかけたり、感触が良さそうなら、その人の家へマメにギターを持って遊びにいったりしてました。
結果として努力した割に、友達は出来ませんでしたが、一人、二人ぐらいは仲良くなることが出来ました。




あ、余談で思い出したけど、その南部の保守的な田舎町では、わざわざ外国人である私に話しかけてくるような人はゼロだったように思いますが、、、。

97年に西海岸のロサンゼルスに近いとある町に、ギター講座を受けるために2週間ほど滞在したときのこと、、。
とにかくガンガンに話しかけられました(嬉)講座が始まる前に、教室にポツンと座ってるだけで、、
「おまえは日本人か?」
「俺のいとこはキョウトに行ったことがある」
「俺は日本のアニメが大好きだ」、、、

たった2週間で多くの人と話せました。「同じアメリカでこうも違うのか、、、はじめっから西海岸に留学すれば良かった」などと思ってました。



アメリカ滞在はまだまだ続きますが、、、
結局、2年半の間に、短い滞在も入れるとアメリカ国内を4カ所ほど転々としていました。

今日日記に書いたテネシー州のマーティンという小さな町。
その翌年の夏には、西海岸のカナダ寄りのシアトルの近くのタコマという町。
秋になって南部のサウスカロライナ
その翌年、病気が発症した年。日本に帰る前に、薬を飲みつつも、先ほど日記に書いた西海岸はロサンゼルスの近くのオンタリオという町に行き、最後に親戚の住むロサンゼルスに一ヶ月ほど滞在してました。

全体的に見て南部と西海岸を行ったり来たりしてましたが、もっと西海岸でがっつり暮らしていれば、ひょっとしたら病気にもならなかったかも、、などと思ってしまうのでした。