さようなら20世紀

今日は結構、病状がいいので、長文書けそうです。

 

結構な前のことだが、昔の知人たちと飲む機会があった。

 

話も終わり、会計することとなった。

私の前に座っていた知人の男が

「おい大嶺、これ払っとけ」

と、数枚の万札を私の前に放り投げた。

 

私は「ん?気のせいかな?」とも思ったのだが、男はわざと、私に対して、威張るような感じだった。

私はつい「なんか、ムカつく、、、」とつぶやいた。

 

咄嗟に男の隣にいた女が

「でも、お金払ったのは○君(男の名)だよ!?」

とフォローした。

 

とまー、その場はそんな感じで終わったのだが。

 

 

 

ところで、私はイチローさんが好きなので、彼の動画をたまに見る。

 

彼が言うには。

お金ってのはその使い方にその人の人柄が出る。

そうだ。

 

それを私なりに解釈すると

収入にはその人の能力が出る。

支出にはその人の人柄が出る。

 

 

日本人は、特に社会に出ると、とかく他人の収入額を気にする。

しかし、ごく当たり前のことだが、実生活とお金と言うのは収入が全てではない。

支出がある。

同じ収入でも、支出が多い人の方が、当然経済的な将来性は低い。

どんなに収入が多くても、支出の多い家族がいればピンチになる可能性も高い。

こんな当たり前のことに気づいてない人が多い。

 

 

さっきのイチローさんの話と混ぜた話をする。

 

以前、区役所の人たちと座談会をする機会があったが、ちょっと重い話になった。

私は

「その人の『能力』だけで、人間の価値を決めてしまうのは古い価値観だ」

と言ったようなことを話した。

 

人間には、人柄、人格、人徳と言ったものがある。

どんなに能力(収入)が高くても、人徳の低い人のところに人は寄ってこない。

むしろ離れていく。

 

人間の価値は能力、人柄だけでなくその他、様々な要素を総合的に見て決まるとは思う。

 

 

最初の飲み会の話に戻るが、なぜ私が何年も前の一回限りの飲み会のことを覚えてるかというと、

あまりにも強烈にその2人の人間に失望したからなのだ。

 

この人は、数万円のお金をその場限りの優越感に浸るために(要するにただの欲)使ったのか、と。

ついでだけど、そのお金で何人の貧困国の子供の命が救えるのだろうか?とも思った。

 

改めて、普段、

何にいくら使っているのか?

自分に問いてみたい。

 

 

最近のことであるけど。

高校時代の旧友と再び連絡を取り始めた。

彼は今、フィンランドにいる。

フィンランドは確か5年連続で、国民の幸福度指数が世界一位の国だ。

彼とは最初の電話で意気投合し、今度帰国した時に会おう、と約束をした。

彼と一番意見があったのは

今の(同世代の)日本人の働き方にうんざりしている

と言う点だった。

彼とは、将来の次世代のための日本人の新しい価値観について話しながら盛り上がっていきたい。

 

 

普段、私のブログを読んでくれてる人はもうわかったよな?

私の言いたいことが。

 

昭和は終わった、平成も終わった。

20世紀は終わったのである。

決して戻ることはない。

次に来るのは令和、間違いなくポストコロナなのだ。

 

もちろん、保守派と革新派のバランスで時代は動く。

アクセルとブレーキが必要だ。

しかし、先にブレーキを踏んでも何も動かない。

先に踏むのは常にアクセルだ。

 

 

ところで、こんな乱文で中途半端な文で、そろそろピアノの練習時間になってしまった(慌)。

覚えてたらこのブログは加筆修正したいな。